SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その135) ブログトップ

機の深信があってはじめて法の深信がある [はじめての『高僧和讃』(その135)]

(5)機の深信があってはじめて法の深信がある

 悪人とは自分を悪人と気づいている人であるということ、ここに悪人正機を理解するポイントがあります。
 自分を悪人と気づくとは、善導のことばを借りますと、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と思い知らされたということです。「気づく」といい「思い知らされる」といいましたが、これらの言い回しのなかに「向こうから」が含意されています。それに対して、「オレは悪人だ」と「こちらから」言うときは、そこにかならず逃げ口上が用意されています。「オレは悪人だ」と言いながら、「こんなふうに言えるということは、それほど悪人ではない証拠だ」と思っているのです。自分で自分を徹底して否定することはできません。自分が完膚なきまでに否定されるのは「向こうから」です。そのとき、もうグーの音も出ません。
 さて、自分が完膚なきまでに否定されたとき、不思議なことに、そんな自分がそのままで丸ごと肯定されるのです。また善導のことばを借りますと、「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」と気づくのです。「こんな自分が救われるはずがない」と思い知らされたそのとき、「こんな自分がこんな自分のまま救われる」という気づきがある。「こんな自分のまま救われる」と自分で思おうとしても思えるものではありません、それもまた「向こうから」やってくるしかありません。「こんな自分が救われるはずがない」という気づきとともに「向こうから」やってくるのです。
 救われるはずがない悪人であるという気づきがあってはじめて、そんな悪人が救われると信じることができるとしますと、「悪人でも救われる」のではなく「悪人こそ救われる」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その135) ブログトップ