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自力の心行いたらねば [はじめての『高僧和讃』(その138)]

(8)自力の心行いたらねば

 浄土とこころの関係について述べてきましたが、さて次に、その浄土へは「自力の心行」では至ることができず、「如来の弘誓」に乗じるしかないということを考えなくてはなりません。浄土へは自力でゆくことはできず、他力によるしかないということです。
 浄土は「こころに縁ってある」ということをもう一度思い返しましょう。「こころに縁る」とは、言い換えれば、「気づきに縁る」ということです。気づいてはじめて存在するということ、これが「こころに縁る」ということです。ここでまた疑問がくすぶり出すかもしれません。弥陀も浄土も、われらが生まれるよりはるか昔から(十劫の昔から)存在するはずであり、われらが気づく、気づかないとは関係ないではないか、という疑問です。この疑問は遠のいたかと思うと、またいつのまにか忍び寄ってきています。
 ぼくらには、何かが存在するということは、それに気づこうが、気づくまいが、そんなことに関係なく存在する、つまり客観的に存在するのでなければならないという強い刷り込みがあります。しかし、こと浄土(あるいは阿弥陀仏)に関する限り、それは客観的に存在するもの、つまり「こころに縁る」ことなく空間内の特定の位置に存在するものではありません。それは「気づきに縁って」はじめて存在し、気づかなければどこにも存在しないという体のものです。
 「こころに縁る」とか「気づきに縁る」と言うときの「縁る」とは「原因となる」ということではありません。「こころ」や「気づき」が浄土を作り出しているのではないということです。でも、繰り返しになりますが、「気づき」のないところに浄土はありません。そしてこの「気づき」は「こちらから」えることはできず、あるとき「向こうから」やってくるのです。これが浄土へは「自力の心行」でゆくことはできず、「如来の弘誓」に乗じるしかないということです。
 浄土にゆくとは、浄土に気づくことに他ならないということでした。では、どんなときに浄土に気づくのか、次の和讃はそれを詠います。

タグ:親鸞を読む
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