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継時的と同時的 [はじめての『高僧和讃』(その139)]

(9)継時的と同時的

 次の和讃です。

 「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽(ほっしょうじょうらく)証せしむ」(第73首)。
 「煩悩の身と信知して、本願力に乗ずれば、かならずこの身ぬぎすてて、涅槃の身にとなりぬべし」。

 「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば」をどう読むか。「信知し〈て〉」と後に続きますことから、まず「煩悩具足と信知し」、そこから「本願力に乗ずる」というように、前者が因となり、後者が結果するように受け取りたくなります。つまり、自分は煩悩にまみれた身であると思い知ったから、もはや本願力にもたれるしかないと思い定める、というように。しかし、そう読みますと、「煩悩具足と信知する」ことも「本願力に乗ずる」ことも「こちらから」になってしまい、この和讃の本質を取り逃がしてしまいます。
 どんなことでも、ことばで言い表そうとしますと、まずあることを言い、それにつづく形でまたあることを言うというように順番に言うしかありません。一度にすべてを言うことができないということです。言おうとしていることがそのような時間的順序になっていれば何の問題もないのですが、同時的なことであっても、それを表現しようとしますと、どうしてもまずAを言い、しかる後にBを言うという形にならざるをえません。そしてそれを読む人はそこに時間の経過があるように勘違いする可能性が出てくるのです。
 さて「煩悩具足と信知する」と「本願力に乗ずる」とは継時的か、それとも同時的か。先に「煩悩具足と信知して」と言われ、続いて「本願力に乗ずれば」と言われますから、継時的であると勘違いされがちですが、両者は同時的であると見なければなりません。同時的と見ることではじめてどちらも他力となり、継時的と見ますとどちらも自力になってしまうのです。さてしかし「煩悩具足と信知する」と「本願力に乗ずる」が同時的とはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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