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煩悩具足と信知して [はじめての『高僧和讃』(その140)]

(10)煩悩具足と信知して

 まず「煩悩具足と信知して」の「信知」に注目したいと思います。ただ「知って」とは言わずに「信知して」と言われる。禅なら分別智に対して無分別智というところでしょうが、浄土においては「信知」と「信」がつくところがおもしろいと思います。ではただの知と信知とではどう違うかといいますと、「こちらから」知るのと、「向こうから」知らしめられるのとの違いです。そして「向こうから」知らしめられることを「気づく」と言い換えることができます。
 「知る」と「気づく」、またここに立ち至りました。前に述べましたことをかいつまんでおさらいしておきますと、「わたし」と気づきの関係を考えたとき、まず気づきがあり、そののちに「わたし」が現れるということでした。何かを知る場合においては、まず「わたし」があり、そののちに何かを知るという順序ですが、気づきにおいてはそれが逆転するのです。「わたし」は気づきに後れをとるのです。知ることは「わたし」が知ろうとしてはじめて知ることができますが、気づくことは「わたし」が気づこうとしても気づくことはできず、思いがけず気づくしかないということです。
 「煩悩具足と信知する」のは「気づき」であるように、「本願力に乗ずる」というのも本願力に「気づく」ということです。本願力があることを知って、それならばと本願力に乗ずるのではなく、本願力に気づくこと(遇うこと)が取りも直さず本願力に乗ずることです。そして煩悩の気づきと本願力の気づきは同時です。まず煩悩の気づきがあり、しかる後に本願力の気づきがあるのではありません。煩悩の気づきがあるとき、その裏には本願力の気づきがあり、また、本願力の気づきがあれば、その裏に煩悩の気づきがあります。このように煩悩の気づきと本願力の気づきは二にして一です。

タグ:親鸞を読む
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