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二種深信 [はじめての『高僧和讃』(その141)]

(11)二種深信

 しかし、いったい如何なる根拠で煩悩の気づきと本願力の気づきが同時であると言えるのでしょう。
 根拠も何も、気づきの事実としてそうなっていると言うしかありません。善導の二種深信はその証言です。「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定(けつじょう)してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受(しょうじゅ)してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」(『観経疏』散善義)。深信に二種ありとしか書いてなくて、それが同時であるとは明言されていませんが、しかしひとつの深信(気づき)を、一方から見れば機の深信(煩悩の気づき)であり、他方から見れば法の深信(本願力の気づき)であるという趣旨であることは明らかです。
 このように煩悩の気づきと本願力の気づきは事実として同時であると言うしかないのですが、あえてその根拠を探ってみましょう。
 煩悩の気づきの現場に立ち返りますと、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づきが正真正銘のものでしたら、そこには深い自力無功の思いがあるはずです。これまでは己れの力で己の人生をデザインできると思っていたが、何のことはない、宿業のままに悪を重ねてきただけではないか、と思い知らされる。この自力無功とは釈迦のことばでは「無我」に他なりません。どんなときも主人としてしゃしゃり出てくる「われ」というもの、実のところ仮構されたものにすぎないということです。「われ」があらゆることをはからっていると思っているが、実際は見えない力にはからわれている。これを浄土の教えで他力とよび、本願力とよんできたわけです。
 としますと、煩悩の気づきは本願力の気づきと別ではないということになります。煩悩に気づくことが、そのまま本願力に気づくことであり、本願力に気づくことは、取りも直さず煩悩に気づくことです。

タグ:親鸞を読む
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