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それほどひどい悪人でしょうか [はじめての『高僧和讃』(その145)]

(15)それほどひどい悪人でしょうか

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 「『歎異抄』を聴く」という講座で、第3章の「悪人正機」の話をした後、何かご質問は、ともちかけますと、ある方がこう言われました、「本願の気づきと悪人の気づきはひとつというお話ですが、自分はそれほど悪人であるとは思わないのですが」と。そう言われてハッとし、講座のなかでどんなふうに話したかをふりかえってみました。親鸞のいう悪人とは客観的な意味の悪人のことではなく、自分を悪人と気づいている人をさしていると説明しながら、聞いてくださっているみなさんは自分を悪人だと思っておられるに違いないと勝手に思い込んでいたようです。
 しかしそれはその方にとって心外だった。自分が救いようのない悪人であるなどと思うのは尋常ではないということです。それほど善人ではないだろうが、しかしそれほど悪人でもないと思うのが普通だということ。だから、自分を悪人と思うのは当然であるかのような言い方をされると、どうしても反発を感じてしまうのです。すぐ前のところで煩悩を全身で懺悔するというような言い方をしましたが、これにも「自分は懺悔しなければならないほど悪いことをしているとは思えません」という反発の声が出ることでしょう。
 ぼくが講座の中で、悪人というのは自分を悪人と気づいている人ですと言ったとき、ぼくの中に誰しも自分を真摯に振り返れば悪人と思うのが当然ではないかという意識があったということです。しかしことはそんなふうにはなっていない。他人から「あなたは悪人です」と言われると、それに激しく反発することはあっても、「おっしゃる通りです」とはならないということです。そもそも懺悔しようとして懺悔できるものではありません。懺悔しようとしてする懺悔は見かけだけのもので、どこかに抜け道が用意されています。「自分は悪い人間だから懺悔しなければならないが、しかし懺悔できるということはそれほどひどい悪人ではないということだ」というように。
 懺悔はこちらからそうしようと思ってすることではなく、向こうから否応なくせしめられるものです。

タグ:親鸞を読む
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