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どうして信じるだけで? [はじめての『高僧和讃』(その148)]

(18)どうして信じるだけで?

 「金剛の信心ばかりにて、ながく生死をすてはてて」は、念仏よりも信心に焦点を合わせていますが、親鸞としては念仏と信心は別ものではありません。念仏するのは信心があるからであり、信心があればおのずと念仏するのですから。で、ただ信じるだけで救われる、そんなことがどうして言えるのか、これが問題です。善導の答えは、それが経典に説かれた仏の教えだ、ということです。本願を信じて念仏すれば仏になると経典に書いてあるのだから、これ以上の真実はない、と。この答えに素直に頷ける人は幸いなるかな。仏教の権威を感じられなくなった現代人の多くは、「経典に書いてあるからといって、そうですかと受け容れるわけにはいかない」と応じるのではないでしょうか。
 経典に説かれているから、でとどまるのではなく、経典に説かれていることがどうして真実なのかを問わなければなりません。
 経典に書かれているから本願を信じるというのはもう通用しません。本願があるということはどういうことかをわが身に感じなければなりません。それが真に本願を信じるということです。そこで、もう一度「五濁悪世のわれらこそ」に戻りますと、これまた経典にいまの世は五濁悪世であると書かれているからそうだと思うのではなく、わが身に五濁悪世を感じるということでなければなりません。「わが身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と感じる、「こんな自分が救われるはずがない」と思い知らされるということですが、これは取りも直さず自力無功に気づくことに他なりません。もはや自力では何ともならないと思う。そのときです、本願の声が聞こえてくるのは。
 本願というものが存在すると経典に説かれているから信じるのではありません。本願そのものが声としてわが身に語りかけてくるから信じるのです。いや、本願が語りかけてくることを聞いて、それを信じるのではありません、本願の声がわが身に届くことそのものが本願を信じるということです。そして本願を信じることが救われるということです。

タグ:親鸞を読む
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