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ながく生死をへだてける [はじめての『高僧和讃』(その149)]

(19)ながく生死をへだてける

 次の和讃です。

 「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光照護(しょうご)して ながく生死をへだてける」(第77首)。
 「こわれることのもはやない、信のさだまるそのときに、弥陀の光につつまれて、すでに生死の迷いなし」。

 どこかで見たことのある和讃だなと思われなかったでしょうか。そうです、これは『歎異抄』第15章で唯円が取り上げている和讃です。唯円は、この和讃が「信心のときにすなわち成仏する」と解釈されることを危惧し、「ながく生死をへだてける」とは「悟りをひらいて仏になる」ということではなく、かならず仏になることが定まること、すなわち正定聚になるという意味であると言っています。先の和讃には「ながく生死をすてはてて」とありましたが、「生死をすてる」とか「生死をへだてる」とは、生死そのものから抜け出る、つまり仏になるということではなく、生死の迷いから離れるということです。
 では、かならず仏となると定まること(正定聚になること)が、どうして生死の迷いから離れることになるのでしょう。
 そもそも生死の迷いから離れるとはどういうことか。「このままじゃ死んでも死に切れない」と言います。「自分にはまだやらなければならないことがあるのに、このまま死んでしまうのではやりきれない」ということです。「死に切れない」には切実な響きがありますが、ひるがえって考えてみますと、死に切れないのは生き切っていないからに違いありません。生きることに不足があるということです。やり切っていない、まだ生き切っていない、だから死に切れないのでしょう。これが生死の迷いのなかにあるということであり、その反対に、生死の迷いから離れるとは、生き切ることができた、だから死に切れるということです。

タグ:親鸞を読む
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