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足し算と引き算 [はじめての『高僧和讃』(その152)]

(2)足し算と引き算

 これまで信心とは気づきに他ならないと述べてきました。本願を信じるというのは、本願に気づくということだと。そのように言い換えることで信心は「こちらから」つけ加えるものであるかのような印象が和らぐと思います。でも、信心を気づきと言い換えるにしても、それはあくまでわれらの側に残されています。すべてが与えられるといっても、そのことに気づくか気づかないかはわれらにゆだねられていて、もし気づかなかったら与えられていないのと変わりありません。としますと、気づきもわれらが本願につけ加えなければならないものということにはならないでしょうか。やはり「本願」プラス「気づき」イコール「往生」ではないでしょうか。
 あらためて気づきの現場に立ち返ってみましょう。
 これまでずっとあったはずなのにちっとも気づかなかったが、あるときどういう風の吹き回しか、「あゝ、あるじゃないか」と気づく。それは、これまでずっとあったものに何かが付け加えられたと言うよりも、むしろ何かが引き去られたと言うべきです。何かがプラスされるのではなく、逆にマイナスされることではじめて「あゝ、あるじゃないか」と気づく。いったい何が引き去られたのでしょう。川の水が濁っていますと、その底に何があるかは見えませんが、あるとき水がサアーっと澄んで底に沈んでいるものがはっきり見える。こんなとき水の濁りが、あるはずのものを見えなくさせ、それが取り去られることで見えるようになったのです。
 本願に気づかないようにしていた遮蔽物が取り去られる(マイナスされる)ということです。その遮蔽物とは「わたし」に他なりません。ずっとむかしから本願があるのに、それに気づかないように遮っていたのは「わたし」という濁りです。唯識で「末那識」とよばれるもの、これはあらゆるものに「わたし」という色をつけます。世界がすべて「わたし」色に染まることで見えるはずのものが見えなくなるのです、川の水が濁ることで川底が見えなくなるように。そしてあるとき「わたし」色がサアーっと透明になることで、ずっとむかしからあった本願に気づく。これが信心であって、信心とは本願に何かをプラスすることではなく、マイナスすることです。

タグ:親鸞を読む
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