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利他の信楽うるひとは [はじめての『高僧和讃』(その153)]

(3)利他の信楽うるひとは

 次の和讃です。

 「利他の信楽うるひとは 願に相応するゆゑに 教と仏語にしたがへば 外の雑縁(げのぞうえん)さらになし」(第79首)。
 「他力の信をうるひとは、仏の願いにかなうゆえ、教と仏語にしたがえば、他には何もいりはせぬ」。

 「利他の信楽」の「利他」は「他力」です。曽我量深氏の言われるのでは、自力・他力というのは世俗のことばで、仏教のことばとしては自利・利他であったものを、曇鸞が自力・他力と言い換えたということです。なるほど、自力とは「自らを利する力」であり、他力とは「他を利する力」ですから、ほんらい同じ意味です。それがいつしか違ったニュアンスで遣われるようになり、そこから「他力本願」にまつわる誤解が生まれてきたと言えるでしょう。
 次に「教と仏語にしたがへば」ですが、この和讃のもととなったと思われる『往生礼讃』の文から推してみますと、「教と仏語」とは「釈迦の教えと諸仏のことば」という意味で、釈迦が弥陀の本願の教えを説き、諸仏がそれを讃嘆することばにしたがう、ということです。
 さて先の和讃からの流れのなかで「利他(他力)の信楽」について思いを廻らしたい。
信心とは本願の気づきを邪魔していた遮蔽物が取り去られることだと言ってきました。で、ここでまたしてもわれらが遮蔽物を取り除かなければならないというように考えますと、「本願」プラス「遮蔽物の除去」イコール「往生」となり、元の木阿弥になってしまいます。そもそも遮蔽物というのが「わたし」ですから、その遮蔽物を「わたし」が除去できるわけがありません。
 「わたし」という遮蔽物を「みずから」除去することはかなわず、それは「おのずから」除去されるしかありません。夢から目覚めるのは、「みずから」そうしようと思ってできることではなく、「おのずから」目覚めるしかないのと同じように。これが「利他の信楽」ということです。

タグ:親鸞を読む
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