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願に相応するゆゑに [はじめての『高僧和讃』(その154)]

(4)願に相応するゆゑに

 第2句の「願に相応するゆゑに」ですが、頭にうかぶのは『観経疏』「散善義」のあのことばです。「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時節の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」。法然が黒谷の経蔵でこれに出会い、感涙を流したといわれる因縁の一文です。どうして念仏するだけで往生できるのか、法然にとって薄皮一枚の隔てがありましたが、その薄皮がこの一文でパッと剥がれた。
 われらが「こちらから」往生を願うのではなく、如来が「向こうから」往生を願ってくれているということ。
 念仏することが「こちらから」往生を願うことでしたら、念仏することでどうして往生できるのかは理解できません。念仏するだけで往生できるなどということがなぜ可能なのかは分からないと言わざるをえません。しかし、われらが勝手に往生を願っているのではなく、如来が「向こうから」われらの往生を願ってくれているとしたら、話はまったく違ってきます。如来が「念仏して往生せよ」と呼びかけてくれているのでしたら、その呼びかけに応じ、念仏することで往生できるのは当然ではないでしょうか。
 法然は善導の「かの仏願に順ずるがゆゑに」ということばからそのことに気づかせてもらったのです。
 しかし如来が「念仏して往生せよ」と呼びかけてくれているとどうして言えるのでしょう。如来がわれらの往生を願ってくれているとどうして分かるのか。「それが如来の本願だから」ですが、それが「経典にそう書いてある」という意味でしたら、それだけで人を頷かせる力があるとは思えません。経典に書かれてある本願はどこまでもよそよそしい顔つきをしています。それが声として直に届いてはじめて身に染み、本願としてのはたらきをするのです。

タグ:親鸞を読む
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