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「わたし」という殻 [はじめての『高僧和讃』(その156)]

(6)「わたし」という殻

 このように見てきますと、「わたし」とは「わたしのいのち」を守るための殻のようなものとしてイメージできます。
 ニワトリの卵の殻がその中身である卵そのものを守るためにあるように、「わたし」という殻がその中身である「わたしのいのち」を守るためのはたらきをしているのです。そして卵の殻とは違い、「わたし」という殻は実に精妙なはたらきをしています。この殻には眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの監視所があり、そこから外の様子をしっかりうかがっています。何がわたしのいのちのためになり、何が損なう危険があるかを四六時中見張っているわけです。
 このように、「わたし」が是としたもののみが内に入ることを許され、非とされたものは入ることができません。
 ところがこの「わたし」という殻があるとき突然消えたとしか思えないことがあります。これまで「わたし」が溶けるという言い方をしてきましたが、突然消えると言った方がいいかもしれません。溶けると言いますと、溶けたままになってしまうような印象を与えますが、「わたし」という殻はすぐさま元通りに復元するからです。あるときふと「わたし」が消え、次の瞬間にはまた元に戻っている。そのように言わざるをえない瞬間があるということです。
 なぜそんなふうに言わざるをえないかといいますと、本願の声は気づいたときにはもうすでに内に届いているからです。
 ある瞬間に「わたし」という殻が消え、そのとき本願の声が内に入った。そして次の瞬間にそのことに気づくのです、「あゝ、もう届いているではないか」と。「わたし」という殻の外にあるものは、いつも疑いの眼で監視されています。しかしその内に入ったものにはもはや疑いの起こりようがありません。内に入ったということは、いのちと一体となったということですから。

タグ:親鸞を読む
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