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信は願より生ずれば [はじめての『高僧和讃』(その159)]

(9)信は願より生ずれば

 次の和讃です。

 「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」(第82首)
 「信は願より生ずれば、おのずからして成仏す。おのずからして往生し、涅槃をえるもうたがわず」。

 下手な訳でわれながら嫌になります。この和讃はもう訳すなんてことはしないでそのまま味わうべきでしょう。
 まず「信は願より生ずれば」ですが、これは「われらが本願に信心をつけ加える」のではなく、むしろ「われらの信心は本願から生まれてくる」のだと言っています。「賜りたる信心」ということで、もう何度となく取り上げてきた論点ですが、少し視点を変えて捉えなおしてみたいと思います。信とは願の気づきに他なりませんから、信が願から生じるということは、願のなかにその気づきが前もって仕込まれているということになります。
 しかしどうしてそんなことが言えるのかは考えてみなければなりません。それは自明のこととは言えないからです。
 誰かが願っていることが、われらに関係することであるとしても、われらがそれに気づくのは当然とは言えません。どれほどわれらのことを願ってくれているとしても、気づかないままということはいくらでもあるでしょう。しかしそれが実はわれら自身も願っていることだとしたらどうでしょう。われら自身が願っていることを、われら自身が気づくことができることに不思議はありません。
 さて、「信は願より生ずれば」と詠われている願はもちろん法蔵の願いであり、われらの願いではありません。ですから、それがわれらの往生を願ってくれているとしても、それに気づかないということは不思議ではありません。しかし、それが法蔵の願いであるとともに、実はわれらの願いでもあるとしたらどうでしょう。

タグ:親鸞を読む
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