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修するをみてはあだをなす [はじめての『高僧和讃』(その162)]

(12)修するをみてはあだをなす

 二河白道の譬えでいいますと、「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん」と進退窮まったとき、「すでにこの道あり」と一歩踏み出した。これが本願他力に気づいたということです。もうすでに白道の上にいることに気づいたのです。この道は確かだと思って踏み出したのではなく、気づいたときにはもう道の上にいたのですから、うしろから戻って来いと言われても何ともなりません。一旦踏み出した以上、おいそれと引き返すことができないということではなく、白道の上がすでに浄土にひとしいと感じているのです。
 貪瞋の煩悩が左右から押し寄せてくるのはこれまでと何も変わりませんが、そうでありながら同時に浄土にひとしいのですから、もう引き返すことはありません。この道がほんとうに涅槃につながっているのかどうかは、行ってみなければ分かりません。「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」(『歎異抄』第2章)です。でも、ここがすでに浄土にひとしいのですから、それ以上何をのぞむことがあるでしょう。
 さて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」と貶すだけでしたら「わたしにはこの道しかありません、悪しからず」で済むでしょうが、それにとどまらず、念仏を「修するをみてはあだをなす」輩が出てきたらどうでしょう。法然や親鸞にとってこれは現実に襲いかかってきた災難でした。念仏が停止され、念仏者が死罪や流罪になったのです。親鸞は手紙のなかで、念仏にあだをなす輩についてこう言っています、「かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげをなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候しか」と。
 これを政治権力の暴虐に対する弱々しい諦めと受けとるべきではないでしょう。たとえどんなに強力な権力であろうと念仏にあだをなすことなどできるわけがないという確固たる信念と見るべきです。

タグ:親鸞を読む
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