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ながく三途にしづむなり [はじめての『高僧和讃』(その163)]

(13)ながく三途にしづむなり

 次の和讃です。

 「本願毀滅(きめつ)のともがらは 生盲闡提(しょうもうせんだい)となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三途にしづむなり」(第84首)。
 「本願そしるともがらは、真理にくらきものとして、どれほど時がたとうとも、三途にしずむばかりなり」。

 前首につづいて念仏をそしる人のことが詠われます。まずはことばの解説から。「本願毀滅」といいますのは本願をそしり、あだをなすということです。「生盲」とは生まれながら目が見えない人(真理にくらい人)、「闡提」とは快楽を追求するのみで仏法に縁のない人のことです。「三途」は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を指します。この和讃は善導『法事讃』の「かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず」から作られています。
 本願をそしるような輩は未来永劫三途から出ることはできないと言うのです。かくかくしかじかの者は地獄におちるという言い方は、人を脅すことばとしてつかわれるものですが、親鸞にはふさわしくないのではないでしょうか。あることをすれば浄土に往生でき、あることをすれば地獄におちるとしますと、この世をどのように生きるかによって、浄土か地獄かが決まるということになりますが、それでは己れのことを己れが決めるということで、親鸞の他力思想とは相いれないと言わざるをえません。
 それよりなにより、浄土と地獄とを「あれか、これか」と同じ資格で平面上に並べるのは無茶です。仏教の「浄土と地獄」は、キリスト教の「天国と地獄」とは似て非なるもので、単純に対となるものではありません。仏教の地獄は、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道輪廻のなかのひとつであり、それら六道から解脱することで浄土へ往生することができるのです。天も含めて六道のすべてが迷いの世界として平面上に並び、そこを超越して浄土があるのです。

タグ:親鸞を読む
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