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あるときは畜生、あるときは餓鬼 [はじめての『高僧和讃』(その164)]

(14)あるときは畜生、あるときは餓鬼

 六道輪廻といいますと、いまはたまたま人であっても、次の世では畜生になり、そのまた次の世では地獄におちるというようにイメージされます。このように「来世で生まれ変わる」という発想が輪廻のもとになっています。そして浄土に往生するのも、この世のいのちが終わってのちであり、畜生や地獄に生まれ変わる代わりに、浄土に生まれ変わると考えられるのです。
 さてしかし親鸞にとっては「信心のさだまるとき往生またさだまる」のであり、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」ですから、そこからおしはかってみますと、かならずしも六道輪廻をこの世とあの世をまたいで生まれ変わると発想しないでもいいのではないかと思われます。この世のうちで六道を輪廻しつづけ、そして信心のさだまるときに浄土往生すると考えることができないでしょうか。
 親鸞は輪廻について積極的に発言することがほとんどありませんから(釈迦は死んでからどうなるかについて無記を貫きましたが、親鸞もそのひそみに倣っているように思われます)、これはあくまで推測にすぎませんが、この世のうちで六道を輪廻しつづけると考えることで親鸞の思想が首尾一貫すると思われます。普段は人として普通に生きていても、あるときは畜生のように争い合い、あるときは餓鬼のように貪り喰らい、またあるときは地獄の苦しみを味わうというように迷いに迷っているのです。
 ところが、本願に遇うことができますと、この迷いから離れることができる、これが往生浄土です。煩悩のなかにある限り六道輪廻がなくなるわけではありませんが、そのままで往生浄土することができるのです。しかし、本願に遇うことができず、そのゆえに本願をそしるような人は、六道輪廻の迷いのなかを彷徨い続けるしかありません。これが「ながく三途にしづむなり」ということで、この世を、あるときは畜生、あるときは餓鬼、そしてまたあるときは地獄と巡りつづけ、「すでに浄土に居す」ことに気づかないのです。

タグ:親鸞を読む
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