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苦しいはずのことを楽しいと [はじめての『高僧和讃』(その166)]

(16)苦しいはずのことを楽しいと

 凡夫というものは娑婆をいとうことがなく、浄土をねがうこともないものだが、「いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土つねに居す」と言うのです。この文を親鸞は手紙のなかで「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と言い換えたのでした(『末燈鈔』第3通)。「すなはち浄土つねに居す」を「すぐさま煩悩から離れることができる」と誤解されるのを恐れて、「その心」とひと言つけ加えたと思われます。その身は娑婆のままだが、その心はもうすでに浄土に居るのだと。
 さて、厭えばただちに娑婆を離れ、欣えばすぐさま浄土に入ることができるのに、凡夫はいつまでも娑婆にしがみつこうとし、浄土をねがおうとしないのはどういうわけでしょう。娑婆はそのことばの通り「サハ―(苦しみの世界)」であるはずなのに、どうしてそこに居つづけようとし、浄土へ往こうとしないのか。考えられるのはただひとつ、苦しいはずのことを楽しいと感じているからに違いありません。ほんとうは苦しいのに、どういうわけかそれを楽しいと感じている。だからしがみつこうとするのです。
 もうはるか昔のことになりますが、朝起きると真っ先に朝刊を手に取り、株式欄に目を通していたことがあります。
 義父が亡くなったとき、その遺産分けとしてわずかばかりの株式をもらいました。時価を確かめますと30万円ぐらいだったと思います。「なーんだ」と思い、そのままタンスにしまい込んだのですが、それからどれくらい経ったでしょう、世のなかがバブル景気で騒然としてきました。テレビでは株がどんどん値上がりしていると報じています。そう言えばタンスに株券があったと思い出し、株式欄をみますと何と100万円を超えているではありませんか。ぼくの目の色が変わりました。
 さあそれからは毎朝朝刊とにらめっこして、上がったといっては喜び、下がったといってはガッカリする繰り返しです。そんな日々をすごすなか、ふと思いました、何だかこの頃の自分は以前とくらべてさもしくなったのではないか、と。つまらないことに一喜一憂している自分が哀れになってきたのです。そのことを思い返して、つくづく感じますのは、ぼくらは苦しみを楽しみと思い違いして、娑婆世界にしがみついているのではないかということです。そんなふうにして「曠劫以来もいたづらに、むなしくこそはすぎにけれ」ではないのかと。

タグ:親鸞を読む
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