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さもしいと思うのは [はじめての『高僧和讃』(その168)]

(18)さもしいと思うのは

 高校野球の監督が自校が勝利すれば喜び、負ければ悲しむのが自然であるように、世界史の教師が自校の世界史の平均偏差値が上がれば喜び、下がれば悲しむのも当然であり、それがなぜ「さもしい」のかと言われるかもしれません。それは会社でいえば,営業マンが自社の営業成績が伸びると喜び、下がると悲しむのと同じで、それが普通どころか、むしろ営業マンにそういう感覚がなければ失格のレッテルをはられてしまうでしょう。それがなぜ「さもしい」のか。
 この感覚は「わたし」のなかからは出てこないと思われます。「わたし」のなかにいる限り、他の「わたし」と競争し、やれ勝った、やれ負けたと一喜一憂するのはごく当たり前のことだからです。「わたし」というシステムのなかに他の「わたし」との競争はもとから仕込まれていると言わなければなりません。いや、わたしには競争なんていうものはありません、と言う人がいるとしますと、その人が自分を欺いていないのであれば、もう「わたし」というシステムから降りてしまった(仏になってしまった)人でしょう。
 「わたし」というシステムの中にいながら、他の「わたし」と競争して、勝った、負けたと騒いでいる自分を「さもしい」と感じるとしますと、この感覚は「わたし」の外からやってきたと考えざるをえません。それが「弘誓のちからをかぶらずば」ということです。弘誓の力というのは、「わたし」の外からやってきて働きかける力で、それがあるとき「わたし」に囁きかけるのです、「おまえは他と競争して、勝った、負けたと大騒ぎしているが、そんなことでいいのか」と。
 そのときです、ほんとうは苦しみであるのに、それを楽しみだと勘違いしていたと気づかされるのは。株価が上がったときは、正直うれしくなります。世界史の平均偏差値が上がると舞い上がりたくなります。それらが下がった時のことなどすっかり忘れて「やれ楽しい」と人生を謳歌したくなるのです。でも、「そんなことでさもしくないのか」のひと言にうちのめされて目が覚めるのです、「あゝ、苦しみでしかないことを楽しみにしていただけではないか」と。

タグ:親鸞を読む
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