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娑婆永劫の苦 [はじめての『高僧和讃』(その169)]

(19)娑婆永劫の苦

 善導讃の最後の和讃です。

 「娑婆永劫(ようごう)の苦をすてて 浄土無為を期(ご)すること 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」(第87首)。
 「娑婆永劫の苦をすてて、安楽浄土に入ることは、釈迦の教えがあってこそ、いつもその恩わすれまじ」。

 先の『般舟讃』の文、「弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん」につづいて、「いかんが今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり」とあるのに依っています。弥陀の力だけでなく釈迦の力のおかげで娑婆を出て浄土に入ることができると讃えているのです。弥陀の本願は釈迦がそれを『無量寿経』に説いて下さることでわれらに届くことができたのだから、その釈迦の恩は身を粉にしても、骨を砕いても報じなければならないというのです。
 さて前二首につづいて「娑婆永劫の苦」にもう少しこだわりたいと思います。
 仏教の根本の教えを整理して四つにまとめたものを四法印といいます。一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の四つですが、そのはじめにくる一切皆苦でもう躓きます。生きることのすべてが苦であるというのですが、それはちょっと言い過ぎではないかと思ってしまうのです。なるほど生きることには苦しみがつきまとうが、しかし楽しみもあるではないか。文字通りすべてが苦しみならば、みんな世をはかなんで自らいのちを絶ってしまうのではないだろうか、と。
 これまでこう述べてきました。苦しみの世界であるはずの娑婆にいつまでもしがみついていたいと思うのは、ほんとうは苦しみなのに、それを楽しみと勘違いしているからとしか考えられないと。しかしここにきて、こんな疑問が頭をもたげてくるのです、なるほどそういうふうに苦しみを楽しみと勘違いしていることが多いのだろうが、そうではないほんとうの楽しみというのもあるのではないか、と。たとえば、これまで仲たがいしてきた友と、ある時ひょんなきっかけで仲直りできたようなとき、その夜の晩酌はことのほかおいしいのではないか。

タグ:親鸞を読む
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