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いずれ死ぬのに、なぜ生きる [はじめての『高僧和讃』(その171)]

(21)いずれ死ぬのに、なぜ生きる

 楽しみがまた苦しみになるからこそ、その楽しみに魅力があるのであって、楽しみしかないような世界は退屈で仕方がない、というのは理にかなっているように見えますが、それは苦しみがやってきても、いずれまた楽しみが得られると思うからです。夜はいつまでも続かず、陽はまた昇るから、苦しみもまたよしと思える。そこで考えたいのは、もはやどんな楽しみも得られる可能性のない苦しみです。そう、死です。死はこの世のすべての楽しみの先で必ず口を開けて待ち受けています。
 どんな楽しみも死んだらおしまいです。
 「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という問いが身に迫ってくるときがあり、そのときあらゆる楽しみが色あせてしまいます。釈迦が「一切皆苦」と言ったのはこのことではないでしょうか。どれほど楽しいと思えても、その先には必ず死が待っているのだから、実は苦しみであるものを楽しみと勘違いしているだけではないか、ということです。やはり「娑婆永劫の苦」と言わなければなりません。
 その「娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 本師釈迦のちからなり」と詠われていました。弥陀の本願により「ほとけのいのち」を生きていると気づかせてもらえるのだが、その本願をわれらに伝えてくれたのは釈迦であり、そのご恩を忘れることはできないということです。善導讃の最後にあたって考えておきたいのはこの弥陀と釈迦の関係です。どうして弥陀と釈迦の二尊が登場することになるのか、ということ。
 『大経』に説かれている法蔵菩薩のくだりを読みますと、これはどうみても釈迦をモデルとして描かれているとしか思えません。そこからこんな疑問が浮かんできます、釈迦はどうして自らを語らず、阿弥陀仏のことを語ったのだろうか、と。釈迦はこんなふうに語ることもできたのではないか、「わたしがまだ修行中のことだが、ひとつの誓願を立てた、一切衆生が救われるまではわたしも仏とならないと。その誓願が成就してわたしは仏となることができたのだ」。
 しかし釈迦はそうは言わず、阿弥陀仏の本願のことを語るのです。ここには永遠と時間についての深い真理が隠されています。

タグ:親鸞を読む
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