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なぜ釈迦は弥陀の本願を [はじめての『高僧和讃』(その172)]

(22)なぜ釈迦は弥陀の本願を

 釈迦は2500年前のインドにあらわれました。もしその釈迦が本願をたて、それが成就したとしますと、本願成就は歴史の時間のなかの出来事になります。それがどうした、と言われるかもしれませんが、もしそうだとしますと、釈迦以前の無数の衆生はどうなるでしょう。彼らは本願のない世界に生きていたということになり、救いのない世界をさまよってきたということになりますが、それは本願の趣旨に反します。本願は「一切の衆生が救われるまではわたしも仏にならない」というのですから。
 としますと、本願は永遠のむかしからあったのでなければならず、かくして弥陀の本願が語られることになるのです。
 『大経』には本願は十劫のむかしに成就したと書いてありますが、この十劫を歴史上の時間と考えるべきではなく、永遠のむかしととるべきです。無限とか永遠というのは「こころも及ばれず、ことばも絶えたり」(『唯信鈔文意』)です。物理学者の義兄によりますと、ある計算式で無限大という結論が出てくれば、その計算式は間違っていると考えるそうです。無限はもはや人間の理解の及ばないところにあるということでしょう。で、そのようなものをことばで表そうとしますと、比喩的に言わざるを得ず、それがたとえば十劫という数字になっているのです(『大智度論』によりますと、一劫とは40里四方の巌を100年に一度舞い降りる天女がその衣でなぜることですり減ってなくなってしまう時間です)。
 さてしかし、そうした永遠の本願がわれらに届けられるのは、あくまで時間のなかのことです。われらは時間のなかに生きるしかないのですから。かくして2500年前の釈迦に本願が届けられ、釈迦はそれを人々に伝えた。このようにして弥陀の本願が多くの人々の手元にもたらされることになったのですが、ここでもうひとことつけ加えておきますと、弥陀の本願が永遠であるとしますと、それが釈迦にだけ届いたとは考えられません。無数の人々が本願の声を聞いたに違いありません。ここに仏教の普遍性があるというべきでしょう。

                (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
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