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われこれ故仏とあらはれて [はじめての『高僧和讃』(その173)]

              第10回 源信讃

(1)われこれ故仏とあらはれて

 源信讃のはじまりです。

 「源信和尚ののたまはく われこれ故仏とあらはれて 化縁(けえん)すでにつきぬれば 本土にかへるとしめしけり」(第88首)。
 「夢にあらわれ源信は、われは化仏とあらわれて、その縁すでにつきたれば、本土に帰るとつげたまう」。

 まず、故仏とは古仏です。源信は古仏の化身であるというのです。もっとも源信自身がそう言ったというのではなく、三井寺の僧・慶祚(けいそ)の夢の中に源信が現われ、このように告げたということです。このエピソードを親鸞が源信讃の最初においたということは、親鸞自身が源信を仏の化身と仰いでいたということでしょう。源信和尚はもと仏であるが、衆生を済度するために人間の姿をとってこの世に現れ、その縁が尽きたとき、また仏に戻っていかれたということです。
 先回の終わりにこう言いました、弥陀の本願は永遠であるが、それが時間のなかにいるわれらに届くためには、これまた時間のなかにいる誰かから伝えられなければならない、と。釈迦が弥陀の本願を衆生に伝えるために娑婆に姿を現されたというのはそういうことです。それを釈迦は弥陀の化身(応身)であると言うこともできるでしょう。久遠の弥陀が釈迦という姿に仮託して本願を述べ伝えたということです。そのように考えますと、久遠の弥陀が源信という姿に仮託して日本に本願を述べ広めたと言うのも荒唐無稽ではありません。
 永遠が時間のなかにあらわれるためには(時間のなかにあらわれることがなければ、永遠はわれらにとってまったく無縁の存在です)、ある具体的な姿をとらなければならないということです。

タグ:親鸞を読む
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