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本土にかへるとしめしけり [はじめての『高僧和讃』(その174)]

(2)本土にかへるとしめしけり

 これはキリスト教の場合も同じであり、永遠なる神はイエスという人間の姿をとることではじめてその愛を示すことができます。永遠なる神が、ただ永遠なる存在でしかないならばわれらにはまったく無縁であり、つまりは存在しないということです。神はイエスの姿をとり、人間のことばで語りかけるからこそ、はじめて神の永遠の愛がわれらに伝わるのです。
 ただ、キリスト教と浄土教がまったく異なるのは、神の愛を伝えるイエスは特別な存在としてただ一人しかいないのに対して(イスラム教のように、ムハンマド以外に複数の預言者を考えるとしても、特別な存在であることには変わりありません)、浄土教では誰もが永遠の本願を伝えることができるということです。源信は親鸞にとって特別な存在であったのは間違いありませんが(だからこそ源信を七高僧の一人として上げていますが)、でもそれは親鸞にとってたまたまのことであり、すぐ隣にいる名もない人が阿弥陀仏の化身として本願を伝えてくれるかもしれません。
 誰が阿弥陀仏の化身となるかはまったく分かりません。誰もがその可能性をもっているということです。
 正定聚とはかならず仏となる(と気づいた)人のことでした。言いかえますと、「わたしのいのち」が終われば、かならず「ほとけのいのち」に帰っていく(と気づいている)ということです。そして、かならず「ほとけのいのち」に帰るということは、すでに「ほとけのいのち」にひとしいということに他なりません。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」ままで、同時に「ほとけのいのち」でもあるというのは、特別な人のことではありません。誰もがみなそうですから、どの人も仏の化身になりうるということです。
 自分にとっては仏の化身なんて滅相もないことですが、周りのどなたかには仏の化身として本願を伝えているかもしれないのです。

タグ:親鸞を読む
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