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念仏一門ひらきてぞ [はじめての『高僧和讃』(その175)]

(3)念仏一門ひらきてぞ

 次の和讃です。

 「本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代(じょくせまつだい)をしへける」(第89首)。
 「源信大士ねんごろに、釈迦の教えのそのなかに、念仏一門ひらいては、五濁末世につたえたり」。

 源信が日本ではじめて念仏の教えを説いたのではありません。源信が学んだ延暦寺ではすでに「山の念仏」が行われていました。第3代天台座主となる円仁(えんにん)が唐に留学したおり、五台山で法照(ほっしょう)の五会念仏(ごえねんぶつ)を学び、それを延暦寺に伝えているのです。そして念仏は比叡山の上だけでなく、たとえば空也によって市井にも広められていました(空也は源信より少し前の人です)。このように平安中期になりますと、念仏思想はかなりの広がりをもつようになっていたのですが、源信が念仏の歴史の上で燦然と輝くのは、何といっても彼の著した『往生要集』によってです。
 『往生要集』の冒頭にこうあります。「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足(濁りに濁った現在の世の目となり足となるもの)なり。道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。ただし顕密(顕教と密教)の教法、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しとなさず。予がごとき頑魯(がんろ)のもの、あにあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披(ひら)きこれを修するに、覚りやすく行じやすし」。
 いまの末法の世においては極楽に往生して仏になる道しかないが、その説かれるところの教も行もわたしのような愚かなもののよくなしうるところではない。そこで、ここにわたしなりに念仏一門の要点をまとめた、と言うのです。こうして源信により念仏の教えの要綱が著され、どのようにして往生極楽ができるかが順序を追って説かれることになったわけです。それが如何に大きな影響を及ぼすことになったかはその後の歴史がはっきりと示しています。

タグ:親鸞を読む
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