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源信という人 [はじめての『高僧和讃』(その176)]

(4)源信という人

 ここで源信の人となりを見ておきましょう。
 彼は天慶5年(942年)、大和の国・当麻(たいま)の里に生まれました(ぼくと同郷です)。当麻曼荼羅で有名な当麻寺のあるところです(また古代の飛鳥と難波をむすぶ官道・竹内街道の途中にあります)。当麻曼荼羅は『観経』をもとに極楽浄土のありさまを4メートル四方の織物に描き出したものですが、源信がその当麻寺の近くで生まれたというのは何か因縁を感じます。篤信の母の後押しで9歳のときに延暦寺に入り、良源を師として天台教学の修行生活がはじまります。和讃に「一代仏教のそのなかに」とありますように、彼は天台教学のみならず仏教全般を広く学び、まもなく抜群の才能が発揮されていきます。
 ひとつのエピソードが伝わっています。彼があるとき朝廷主催の法事に講師として招かれるという名誉をたまわり、そのときに戴いた立派な織物を当麻の母に送ったところ、母から送り返されたというのです、「わたしがあなたに期待したのは後生の救いであり、現世の立身出世などではありません」と。これには源信もこたえたとみえて、以後は横川にこもり学問に打ち込んだと言います。また後年のことですが(63歳)、権少僧都(ごんのしょうそうず)に任ぜられたとき、これをまもなく辞しています。
 さてその源信は44歳のときに後の世に大きな影響をもたらすことになる『往生要集』をものします。漠然としていた念仏往生の教えにはっきりした形を与え、浄土教とはこういうものだという範型を作り出したと言えます。そのことを親鸞は「念仏一門ひらきてぞ、 濁世末代をしへける」と詠っているのですが、ただ親鸞浄土教の地点から振り返ってみますと、その間には大きな懸隔があると言わざるをえません。というよりも、源信は道綽・善導流の浄土教を踏まえてオーソドクスな念仏思想を説いていると言うべきで、親鸞がそれに「コペルニクス的転回」を与えたということです。
 問題の焦点は「臨終か平生か」にあります。

タグ:親鸞を読む
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