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浄土とは何か [はじめての『高僧和讃』(そも179)]

(7)浄土とは何か

 穢土が穢土でありながら、そのまま浄土であるというのはどういうことでしょう。「穢〈土〉」や「浄〈土〉」ということばからどうしても懐いてしまう「土地」のイメージから自由になる必要があります。ではそれは何なのか。「いのちのとらえ方」と言っておきましょう。ぼくらが生きていることをどうとらえるか、そのとらえ方に穢土と浄土があると。ぼくらのいのちをただ単に「わたしのいのち」ととらえて生きるのが穢土です。それに対して、「わたしのいのち」を生きているのは間違いないが、しかし「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるととらえて生きるのが浄土です。
 本願に遇うまでは「わたしのいのち」は「わたしのいのち」でしかないと思っていましたが、本願に遇うことで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」でもあると思えるようになったということ、これが「すでにつねに浄土に居す」ということです。いのち終えてから「ほとけのいのち」に入るのではありません、本願に遇えたそのときに、すでに「ほとけのいのち」に入っていることに気づくのです。「わたしのいのち」が消えてしまったわけではありません、「わたしのいのち」は依然として「わたしのいのち」のままですが、同時にそれが「ほとけのいのち」であることに気づくのです。
 さて専修と雑修の問題です。「ただ念仏(専修)」にしてはじめて真の浄土(報土)に往生でき、「念仏も(雑修)」では仮の浄土(化土)にとどまるのはどうしてでしょう。
 念仏とは「往生浄土〈のための〉行」ではないということ、これをあらためて確認しておきましょう。もしそうでしたら「ただ念仏」であるか「念仏も」であるかは本質的な問題ではなく、単なる方法の善し悪しの問題にすぎません。そうではなく、念仏とは「往生浄土に気づいた証し」です。本願に遇うことができ(これが信心です)、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると気づいた喜びのほとばしりが念仏です。としますと、「ただ念仏」だけがほんとうの念仏であり、「念仏も」は似て非なるものと言わなければなりません。それは信心を伴わない一種の呪文にすぎません。
 では「念仏も」で往くという化土とは何なのか、次の和讃でそれを考えましょう。

タグ:親鸞を読む
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