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ボランティア [はじめての『高僧和讃』(その181)]

(9)ボランティア

 少し前になりますが、『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』という本を読みました。著者は木越康という大谷大学の教員で、学生とともに東日本大震災の被災地でボランティア活動をしながら、親鸞の他力思想とボランティア活動との関係について考えたことをこの本に著したのです。そのきっかけの一つが一人の学生の疑問の声でした。これまで支援バスに乗るのを躊躇して、6回目にはじめて参加したという学生がこう言ったというのです、「ずっと自力だと思っていたんです。自分は真宗を勉強してきたので、あれは自力なんだ、聖道の慈悲なんだという思いがあって、それで支援バスに乗ることができなかったんです」と。
 『歎異抄』第4章にこうあります。「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」、前者は「もの(人のことです)をあはれみ、かなしみ、はぐくむ」のだが、「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」。一方、後者は「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益する」のだと。その学生はここから、ボランティア活動というのは聖道の慈悲であり、自力の立場なのだと思ってバスに乗るのを躊躇していたというのです。著者はそれを聞いて、親鸞の他力思想がボランティア活動に対するブレーキになっていることに強い問題意識をもち、どうしてそうなるのかを思索しています。
 ぼくは著者の誠実な思索に敬意を表しつつ、それをぼくなりに考えてみました。
 ボランティアは聖道の慈悲であり、自力の立場だから、するべきではないというのは、悪人こそ救われるのだから、悪いことをするべきだというのと同じ風合いをしています。どちらも親鸞の教えを「教義(ドグマ)」として受けとめ、それを基準にして「いかに生きるべきか」を考えようとしているのです。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」のは聖道の慈悲である。ゆえにボランティアは行うべきではない。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」である。ゆえに悪を行うべきである。あたかも公理から定理を導くかのように、教義から生き方を導いていますが、これほど非親鸞的なことはありません。

タグ:親鸞を読む
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