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悲しみの現場で [はじめての『高僧和讃』(その182)]

(10)悲しみの現場で

 どうして突然こんな話をしたかといいますと、親鸞の教えを書物の中の「教義(ドグマ)」として受け入れるという姿勢は、いま問題にしている懈慢界の生き方と通じるからです。
 懈慢界の生き方とは「本願を信じ念仏もうさば仏になる」(歎異抄、第12章)という教えを「教義」として受け入れ、そこから「いかになすべきか」を考えるというスタンスと言えます。この生き方では、本願も「ほとけのいのち」もどこか手の届かないところにあり、それを手に入れるためには「いかになすべきか」と発想しています。
 それに対して「すでにつねに浄土に居す」という生き方では、もうすでに「ほとけのいのち」を生きています。もちろん「わたしのいのち」を生きているのですが、でも同時にそれは「ほとけのいのち」でもあるのです。このように、もうすでに「ほとけのいのち」を生きていることに気づくところからすると、親鸞のことばはどのように響いてくるか。もういちど『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』を参照したいと思います。
 先ほど「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということばを上げました。聖道の慈悲について親鸞が述べていることばで、これを書物の中のことばとして読みますと、否定的なニュアンスしか伝わってきません。自力で「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」もうとしても、たかが知れているというように。だから聖道の慈悲は意味がないのだ、という結論が導かれることにもなるでしょう。しかしこのことばはボランティアの現場ではまったく違う響きをもってくると著者は言います。
 20数名の学生とともに、家のなかに4、50センチも積もり、強烈な悪臭を放つ土砂をスコップでかき出し、土嚢袋に入れるという作業を続けるのですが、2日かかって広大な地域の中のたった一軒分しかはかどらない。学生たちは「さあ支援をするぞ」と意気込んでやってきたのですが、帰りのバスの中では「何もできなかった」と涙を流すそうです。ときには被災者から「たった二日で何ができるんだ」と言われ、「すみません」と言うしかない。そんなとき「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということばはまったく違う相貌をもって迫ってくるに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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