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死んだら終わりですか? [はじめての『高僧和讃』(その183)]

(11)死んだら終わりですか?

 長くなりましたが、もう少し続けさせてください。
 閖上中学(ゆりあげちゅうがく、宮城県名取市)には慰霊碑が作られているのですが、その横に学習机が置かれ、天板にマジックインクでこんなことばが書かれている、「あの日、大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。街の復興はとても大切な事です。でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。死んだら終わりですか?」と。ここで子どもを亡くした母親が書いたそうですが、みんなが街の復興に前向きになっていくなかで、死んでいった人たちのことが忘れられていくことの悲しさが表されています。その悲しさを突きつけられたとき、「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということばは強い痛みを伴わざるをえません。
 「死んだら終わりですか?」ということばを前にして、日ごろカルチャーセンターで、えらそうに本願の信心について語っているぼく自身が恥ずかしくなりました。
 おまえは親鸞のことばをただ書物のなかでとらえているだけではないのか。人の悲しみや痛みという「大地の中で」(これは本に出てきたことばです)受けとめているか、と突きあげられたのです。「わたしのいのち」はそのまま「ほとけのいのち」であることに気づくことが信心であると語ることは、「死んだら終わりですか?」という痛切な問いへの答えになっているかどうか。「ほとけのいのち」を生きていると感じられたら、どんな境遇でも人生を肯定できると語ることが、子どもが帰ってくるまではわたしの地獄は終わりませんと言う母親に届くだけの実質をもっているかどうか。
 ぼくの親鸞ブログを読んで、「そのままで救われていると繰り返し言われても、そう思えないんだけど」とこぼす妻の姿がだぶります。

タグ:親鸞を読む
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