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千無一失、万不一生 [はじめての『高僧和讃』(その184)]

(12)千無一失、万不一生

 次の和讃です。

 「専修のひとをほむるには 千無一失(せんむいっしつ)とをしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生(まんぷいっしょう)とのべたまふ」(第92首)。
 「専修の人をほめて言う、千に一人も漏らさずと。雑修の人をけなしては、万に一人も生まれずと」。

 これも懐感の『群疑論』に「雑修之人、万不一生。専修之人、千無一失」とあるのがもとになっています。「ただ念仏」の人は、一人の例外もなくみな報土に往生するが、「念仏も」の人は、だれ一人報土へ往生できず、化土(懈慢界)にとどまるということです。ここであらためて報土に往生できず、化土にとどまるということについて思いを廻らしたい。すでに「ほとけのいのち」を生きていることに気づかず、これから「ほとけのいのち」を手に入れようとして念仏する、これが化土の生き方です。
 前に、どうして苦しみの世界であるはずの娑婆を厭わないどころか、そこにしがみつこうとするのかと言えば、ほんとうは苦しみであるのに、それを楽しみと勘違いしているからに違いない、と述べました(第9回、19・20)。同じように、どうして化土にとどまり、報土へ往生する人が少ないのかと言えば、「ほとけのいのち」を手に入れようとしてコツコツ努力する生き方は存外楽しいからではないか、ということについて考えたいと思います。
 先にみました『菩薩処胎経』に「(懈慢界の)国土快楽にして…、阿弥陀仏の国に生れんと欲する者も皆深く懈慢国土に著して、前に進んで、阿弥陀仏の国に生るることあたはず」とありましたように、化土は快楽に満ちた世界なのです。ひとつのはっきりした目標(「ほとけのいのち」を手に入れるという目標)を立て、それを実現すべく一つひとつ課題をこなしていくという生活は、苦しい道程のように見えて、実は充実感のある楽しい時間ではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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