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化土の生き方 [はじめての『高僧和讃』(その186)]

(14)化土の生き方

 次の和讃です。

 「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土(けど)にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり」(第93首)。
 「真の浄土に生きるひと、多くはないとおおせられ、仮の浄土に生きる人、少なくないとおおせらる」

 これまた『群疑論』の「また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず」にもとづいています。ただ、繰り返しになりますが、これも源信と親鸞ではその味わい方に大きな差があると言わなければなりません。源信においては報土も化土もいのち終わった後に往く「場所」であるのに対して、親鸞においては「いま、ここ」で生きている、その生き方を指すということです。報土の生き方と言いますのは、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると気づいているのに対して、化土の生き方は、「ほとけのいのち」をこれから先に望みみて、どうにかしてそれを手に入れたいと願っています。
 さて化土の生き方は、すぐ前に言いましたように、おそらくはけっこう充実した楽しいものだろうと思われます。だからこそ、そこでとどまってしまい、もうひとつ先があることに気づかないのでしょう。充実して楽しいなら、それでいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、ただ、その楽しさには不安がいつもつきまといます。目標に向かって日々精進しているつもりですが、ほんとうにこれでいいのだろうか、これで目標に到達できるのだろうかという疑念がまといつき、それを払拭するためにさらに一生懸命精進する、その繰り返しです。
 もうひとつ大きな問題として、この生き方はどうしても自分あるいは少数の仲間に閉ざされたものとなるということがあります。目標に向かって精進するのはあくまで自分であり、あるいは志を同じくする仲間だからです。もちろん、自分だけが「ほとけのいのち」に入ればいいということではなく、みんなとともに入りたいとは思うでしょうが、その「みんな」はおのずから限定されます。源信の「二十五三昧会」は、限られた仲間うちの実践であり、その意味ではこれまでの「山の念仏」と選ぶところはありません。

タグ:親鸞を読む
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