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大悲ものうきことなくて [はじめての『高僧和讃』(その189)]

(17)大悲ものうきことなくて

 では親鸞にとって「行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし」はどういう意味をもつのでしょうか。もし何の意味もないなら、これを詠うことはないはずです。親鸞としてはやはり本願に遇うこと、名号が聞こえること、つまり信心に焦点があり、念仏するのは信心におのずからともなうことにすぎませんから、「行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし」は本願を憶念することについて言われていると考えるべきでしょう。次の和讃はそれを詠っています。

 「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(第95首)。
 「煩悩まなこを遮って、摂取のひかり見えないが、大悲はうまずたゆまずに、いつもわが身を照らしくる」。

 これは『往生要集』の中で親鸞お気に入りの文、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」をもとに詠っています。先の和讃とのつながりで言いますと、「行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし」は、この和讃の「大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」に重なります。行住坐臥いつもこころに本願があるのと、いつもわが身が大悲に照らされていると感じるのは同じことです。
 いつも大悲はわが身を照らしているのに、ぼくらはついそれを忘れて、つまらないことに腹を立てたり、他の人をそねみ、ねたんだりします。しかし、いったん大悲に遇うことができれば、それが消えてしまうことはありませんから、つい忘れたとしても、またこころに蘇って「あゝ、大悲はつねにわが身をてらしてくださっているではないか」と思い返し、腹を立てたり、そねみ・ねたみを起こしている自分が恥ずかしくなります。一生、その繰り返しでしょう。

タグ:親鸞を読む
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