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摂取の光明みざれども [はじめての『高僧和讃』(その190)]

(18)摂取の光明みざれども

 さてこの和讃で考えたいのは、「摂取の光明みざれども」という文言のなかに隠されている秘密についてです。
 「摂取の光明が見えない」というのは、「摂取の光明がある」ことが前提となっています。もし摂取の光明がないのなら、見えるも見えないもありません。あるからこそ、それにもかかわらず見えないとなるのです。摂取の光明はある、しかしそれが見えない、と言っているのです。当たり前と言えば当たり前ですが、さてここで考えたいのは、見えないのにどうしてあると言えるのかということです。一点、念のためにつけ加えておきますと、ここで見えないと言っているのは、単に目に見えないということにとどまらず、こちらから捉えようとしても捉えられないという意味です。目に見えなくても、何らかの方法で「見る」ことができることはいくらでもあります。
 さて、こちらから見ようとしても見えないのに、どうしてあると言えるのでしょう。
 ソクラテスの「無知の知」が頭にうかびます。世のソフィストたち(知恵のあるもの、の意)が知を誇っていたのに対して、ソクラテスは「自分は無知である」というところから出発しました。自分は無知であるからこそ、知を愛し求めるのだと言います(「知を愛し求める」がギリシア語でフィロソフィア、つまり哲学です)。さて、ここで疑問が生じます。いったいソクラテスはどのようにして「自分は無知である」ことを知ったのか、と。彼がほんとうに無知であるとしますと、「自分は無知である」ことも知らないはずです。彼が「自分は無知である」と言う以上、少なくともそのことは知っているということになりますが、さて彼はそれをどのようにして知ったのか。
 同じように、「摂取の光明が見えない」と言う以上、「摂取の光明がある」ことは知っているはずですが、それをどのようにして知ったのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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