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「見る」ことはできないが「ある」 [はじめての『高僧和讃』(その191)]

(19)「見る」ことはできないが「ある」

 こちらからどのような意味においても「見る」ことができないなら、それは存在しないと言わなければならないのではないか。普通はそうです。どれほどSTAP細胞という万能細胞があると主張しても、それが誰にでも「見る」ことができることを示さなければ「ある」ということはできません。ところが、そのような「ある」とは別の「ある」があるのです。こちらからはどんな意味においても「見る」ことはできないのに、しかし紛れもなく「ある」と言えるものです。
 それは、こちらからどれほど近づこうとしても近づけないのに、あるとき思いもかけず向こうから近づいてくる、そのようなものです。
 そう言えばソクラテスにはダイモニオンという不思議な存在がいたようです。思いがけず彼に語りかけてくる声です。おもしろいことにこの声は何か積極的な指示を与えるのではなく、ただ何かをしようとするとそれを禁止してくるそうです。そして大事なことは、この声はソクラテスにしか聞こえないという点です。だからこの声は彼には紛れもなく「ある」のですが、誰にでも「ある」とは言えない。近代的な感覚では、このような声は幻聴として処理されます。病気だとされてしまうのです。
 あるものが「ある」と言えるためには、それは客観的でなければならない、つまり誰にでも「見る」ことができる(前に言いましたように、目に見えるというだけでなく、こちらから捉えようとすれば捉えられるということです、念のため)ものでなければならない。ある人だけが「ある」と言い、他の人にはアクセスできないようなもの、つまり主観的なものは単なる幻視や幻聴にすぎない。これが当たり前のこととして世に通用していますが、さてしかし「ある」と言えるものはそんなふうに限定されたものでしょうか。それではあまりにも貧しい「ある」にならないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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