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外儀のすがたはことなりと [はじめての『高僧和讃』(その193)]

(21)外儀のすがたはことなりと

 次の和讃です。

 「弥陀の報土をねがふひと 外儀(げぎ)のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐(ごび)にわするることなかれ」(第96首)。
 「弥陀の報土をねがうひと、世をすぐすがた違っても、なむあみだぶつ信受して、ねてもさめてもわすれるな」。

 もとの『往生要集』のことばはこうです、「外儀は異なりといへども、心念はつねに存ぜよ。念々に相続して、寤寐に忘るることなかれ」。外儀とは「外にあらわれた姿やふるまい」のことで、どんな生き様をしていても、ということです。寤寐とは「ねてもさめても」ということで、他のことは忘れても、南無阿弥陀仏だけは寝ても醒めても忘れるなと言っているのです。
 さてここで考えたいのは「外儀のすがたはことなりと」ということです。思い出すのは法然のことば、「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。…ひじり(聖)で申されずば、め(妻)をまうけて申べし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし」です。
 念仏さえ忘れなければ、どんな生き方をしようとかまわない、自分にいちばん合う形で生きればいい、ということです。これは念仏(一般に宗教)と社会生活の問題を考えるときの土台になる考えだと思います。まず言えるのは、念仏は社会生活についてどんな規範も与えないということです。南無阿弥陀仏を信受するものなら、かくかくのことをすべし、あるいは、かくかくのことをすべからず、というような規範、命令は出てこないということ。念仏者は念仏者としての資格において社会問題や政治問題について語ることはできないということになります。
 念仏と社会生活はまったく位相がことなるということです。念仏は他力の位相にあり、社会生活は自力の位相にあって、直接に結びつくことはありません。

タグ:親鸞を読む
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