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寤寐(ごび)に忘るることなかれ [はじめての『高僧和讃』(その195)]

(23)寤寐(ごび)に忘るることなかれ

 念仏者は「この身のあしきことをばいとひすて」るべきだと言うのではありません。念仏者はおのずから「この身のあしきことをばいとひすて」ようと思うものだと言っているのです。
 どう違うのか、と言われるかもしれません。それほど微妙な違いですが、一言でいいますと、前者は「自力の念仏」であり、後者は「他力の念仏」です。前者は、決然として念仏を選んだからには、決然として「この身のあしきことをばいとひすて」るべきであるということであり、それに対して後者は、本願に救われ念仏する身とならせていただいたら、思わず知らずに「この身のあしきことをばいとひすて」ようとするものだということです。
 前者では、「この身のあしきことをばいとひすて」ようとする強い意志がありますが、後者では、それは宿縁のなせるわざであり、自分でそうしようと思ってのことではありません。
 そして「寤寐に忘るることなかれ」ということばについても、同じことが言えます。これは「本願念仏をねてもさめても忘れるべからず」ということですが、この「忘れるべからず」は「忘れてはならぬ」という規範や命令を意味するのではなく、「忘れないものである」あるいは「忘れようとも忘れられるものではない」という意味に違いありません。いや、正確に言いますと、ぼくらはしばしば本願念仏をすっかり忘れてしまいます。欲を起こし、怒りに身をまかせるとき、本願念仏などどこ吹く風です。でも心配ご無用。貪欲・瞋恚の最中に、ふと思うのです、「あゝ、また煩悩の虫たちが暴れている」と。そしてそのとき同時に思い出すのです、「本願念仏があるではないか」と。こうして本願念仏は忘れ去られてしまうことはありません。
 忘れてしまおうとしても忘れられるものではないのです。これが「寤寐に忘るることなかれ」ということの意味です。

タグ:親鸞を読む
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