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またしても宿業 [はじめての『高僧和讃』(その197)]

(25)またしても宿業

 人間には煩悩があるが、それを抑えて悪事をなさないようにするところにこそ人間の尊厳がある。これはすっと頭に入る分かりやすい考えです。
 しかし宗教はもうひとつ先にいきます。なるほど煩悩を意志の力で抑えるのは立派なことで、社会生活はそのような努力の上に成り立っているのは間違いないが、しかしそのように意志の力を働かせることができるのも、たまたまそのような条件に恵まれているからのことではないだろうか、と考えるのです。そのような条件に恵まれていると煩悩を抑えることができるが、恵まれていない場合は煩悩のままにふるまってしまう、と。
 これが親鸞の宿業の思想です。
 これは危険な思想といわなければなりません。まかりまちがえば平穏な社会生活を崩壊させてしまいかねない面をもっています。悪をなすかなさないかは宿業によるとしますと、悪をなす人間を罰することができなくなり、ひいては社会の秩序を崩してしまうのではないかと思えるからです。さてでは親鸞はすべて宿業によるのだから、善をなす人は善をなし、悪をなす人は悪をなすのであり、それはもうどうしようもないことだ、と言っているのでしょうか。
 心配ご無用、そんなことを言っているのではありません。善をなすのも悪をなすのも宿業によることに気づくと、そのしるしがふるまいに否応なくにじみ出るのだと言っているのです。『末燈鈔』第19通に「もとあしかりしわがこころをおもひかへして」とあり、第20通には「この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」とありましたように、宿業の気づきはその人のふるまいを見直させることになると言うのです。
 「自分がそれほど悪人であるとは思えないのですが」と言う人も、自分が悪をなさないのはただその宿縁がないだけのことと気づきますと、悪をなす人との差が一気に吹き飛ぶのではないでしょうか。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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