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智慧光のちからより [はじめての『高僧和讃』(その199)]

(2)智慧光のちからより

 次の和讃です。

 「智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ」(第99首)。
 「智慧光仏のちからより、本師源空あらわれて、浄土真宗ひらいては、選択本願ひろめたり」。

 親鸞は源空聖人を勢至菩薩の化身と仰いでいました。それは『浄土和讃』の最後の勢至和讃のところで明かされています。そして勢至菩薩は阿弥陀仏の智慧を象徴しますから、親鸞にとって源空聖人は阿弥陀仏の化身であるということです。ぼくら現代人には勢至菩薩や阿弥陀仏の化身と言われても単なる譬えとしての意味しか持ちませんが、親鸞にとってはもっと切実なものであったに違いありません。
 『歎異抄』第2章が思い出されます。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」などとどうして言えるのでしょう。さらには「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」などということばはどこから出てくるのでしょう。
 「念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」ということばは「よきひと」の口から出たものです。さてしかし、その「よきひと」が智慧第一の法然房とよばれ、一切経を何度も読んだといわれる源空聖人であるとしても、たとえだまされて地獄に堕ちたとしても何の後悔もないなどと言えるのは、個人的な信頼関係だけでは理解できないものがあります。それが単に「よきひと」法然のことばであるとしますと、どうしてそこまで信じられるのかが分からない。
 それが腑に落ちるとすると、そのことばは「よきひと」の口から出ているのは間違いなくても、それは「よきひと」自身から発せられているのではなく、はるか彼方からやってきたと考える以外にありません。親鸞の目の前にいるのは紛れもなく法然聖人ですが、でもそのことばは法然聖人を通り越してずっと向こうからやってきていると思える。これが化身の思想で、親鸞にとって法然聖人は勢至菩薩の、さらには阿弥陀仏の化身としか考えられないのです。

タグ:親鸞を読む
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