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選択本願とは [はじめての『高僧和讃』(その200)]

(3)選択本願とは

 次に「浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ」について。前に、源信の『往生要集』は浄土の教えを要領よくまとめたものだが、そのなかには親鸞的な眼から見れば真もあれば仮もあり、念仏往生だけではなく諸行往生(『観経』に詳しく説かれている定善・散善)も勧めていると述べました。それに対して法然は諸行往生を決然と捨て、ただ念仏往生だけを説いたと。それがここで「浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ」と詠われているのです。法然は浄土の真実の教えをひらいて、法蔵菩薩が五劫思惟して選択したもうた本願を伝えてくれたのだと。
 法然にとって「選択本願」(浄土宗では「せんちゃくほんがん」と読み、浄心真宗では「せんじゃくほんがん」と読みます)ということばは決定的に重要なタームで、彼の主著は『選択本願念仏集』と名づけられています(法然は文筆の人ではなく、残された著作はほぼこれだけと言っていい。この著作も弟子に口述筆記させたものと言われています)。この「選択本願」の意味について法然自身が第3章「弥陀如来、余行をもつて往生の本願としたまはず。ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文」(本願章とよばれ、『選択集』のハイライトです)のなかで丁寧に説明しています。
 それは、章のタイトルにすでに明らかなように、往生の本願として、余行を捨て念仏を選んだということです。「この中の選択とは、すなわちこれ取捨の義なり」とありますように、衆生を往生させるにあたり、諸行を捨て、ただ念仏だけを取ったということ。ではどうして念仏を取捨選択したのかと言いますと、ひとつには念仏は他の諸行に比べて勝れていること、ふたつには他の諸行は難であるのに対して念仏は易であるとして、「念仏は易きがゆえに一切に通ず。諸行は難きがゆえに諸機に通ぜず。しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて本願としたまふか」と説き進めていきます。この辺りの論の進め方は息もつがせずといった具合で、ハイライト部分にふさわしく力がこもっています。

タグ:親鸞を読む
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