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かの仏の願に順ずるがゆゑなり [はじめての『高僧和讃』(その201)]

(4)かの仏の願に順ずるがゆゑなり

 諸行は難であるのに対して念仏は易であると説くところで、法然は『往生要集』から「念仏を勧むるは、これ余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず。ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願い求むるに、その便宜を得ること、念仏にしかざればなり」という文を引用しています。この源信の説き方と法然の論の進め方をくらべてみますと、源信の場合、諸行と念仏をくらべて念仏を取捨選択しているのが源信自身であると読むことができますが、法然においては、弥陀が一切衆生の往生のために念仏だけを取捨選択したということがはっきりと述べられています。
 われらが念仏を選ぶのではなく、弥陀が念仏を選んで本願としたということ、ここに法然は注目するのです。
 法然は念仏にこころを惹かれながら、念仏するだけで往生できるということに薄皮一枚のわだかまりが取れなかったものと思われます。そんな法然の迷いを吹き飛ばしてくれたのが善導の『観経疏』「散善義」の一節でした。「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」。彼の眼は「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」という箇所に釘づけになったに違いありません。
 そうか、念仏はわれらが選ぶのではなく、弥陀が本願として選んでくださったのだと気づいた。もしわれらが往生のために念仏を選ぶとするなら、どうしてただ念仏するだけで往生できるのかという疑問がどこまでもついてまわるが、そうではなく弥陀が念仏を選んでくださったのなら、念仏で往生できるのは当然ではないか、と。この確信を得た法然は決然として山を降り、東山・吉水の地で専修念仏を説きはじめるのです。

タグ:親鸞を読む
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