SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その202) ブログトップ

いかでか真宗をさとらまし [はじめての『高僧和讃』(その202)]

(5)いかでか真宗をさとらまし

 次の和讃です。

 「善導・源信すすむとも 本師源空ひろめずは 片州濁世(じょくせ)のともがらは いかでか真宗をさとらまし」(第100首)。
 「善導・源信いますとも、本師源空いまさずば、濁世に生きるわれらには、どうして真宗さとらりょか」。

 前二首と同じ趣旨です。法然は『選択集』において「善導和尚は偏(ひとへ)に浄土をもつて宗となして、聖道をもつて宗となさず。ゆゑに偏に善導一師に依る」と述べています。この「偏依善導(へんねぜんどう)」の姿勢は、すぐ前のところで見ましたように、「散善義」の「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の一文に眼を覚まされたということからもよく理解できます。しかしながらこの和讃は、中国に善導が出て、日本の源信が中国浄土教を伝えてくれたと言っても、法然が出てこなければ浄土の真宗が日本に広まることはなかったに違いないと詠うのです。
 そこでいま一度「われらが往生の行として念仏を選ぶのではなく、弥陀が本願として念仏を選んでくださった。だから、ただ念仏することで往生できるのだ」という法然の気づきに戻りたいと思います。これが法然にとって決定的な意味をもったことに思いを致したいと思うのです。考えなければならないのは、どうして弥陀が念仏を選んでくださったと言えるのかということです。われらが念仏を選ぶのであれば、どうして選ぶのかを言うことができるでしょうし、またきちんと言わなければなりませんが(源信はその理由を『往生要集』に述べていました)、弥陀が選んでくださったということはどういう根拠で言えるのでしょう。
 それは経典にそう書いてあるから、でしょうか。経典をよく読めば、弥陀が本願として念仏を選んでくださったことが了解できるはずだ、と。なるほど『無量寿経』の第18願には「十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚(十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにに生まれんとおもふて、乃至十念せん。もし生まれずば正覚をとらじ)」と書いてあります。これは法蔵菩薩の誓願のことばであり、その誓願が成就して阿弥陀仏になられたのだから、『無量寿経』による限り、弥陀が念仏を選んでくださったことは確かでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その202) ブログトップ