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文字と声 [はじめての『高僧和讃』(その203)]

(6)文字と声

 経典に書かれた文字はそのままでは横に寝ています。そして横に寝たままでは「経典にそう書いてあるだろ」と言われても、「確かに書いてあるが、それで?」としかなりません。実際、法然も『無量寿経』を何度も読んでいたはずですが、善導の『観経疏』に出あうまで、それは横に寝たままだったのでしょう。経典の文字は立ち上がってこちらに向かってきてはじめてこころにさざ波を立てるのです。法然が善導の「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」に出あうことで、『無量寿経』の「至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」の文字が立ち上がって彼に向かってきたに違いありません。そのとき法然は、そうか、念仏は弥陀の選択なのだ、と気づいた。
 そのとき法然のなかで何が起こっていたのでしょう。
 『無量寿経』の「至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」は、釈迦が弥陀の本願について語ることばとして記されています。釈迦が阿難に対して「はるかむかしに法蔵菩薩という方がおられて、こういう誓願を立てられたのだ」と述べているのです。法然はそれをそういうものとして淡々と読んでいたのでしょう。ところがあるとき、法然に向かって法蔵がみずから立ち上がって「至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」と語りかけたのです。「法然よ、汝が南無阿弥陀仏と称えれば、かならず汝を往生させよう、そうでなければ、わたしも仏となるまい」という法蔵の声が聞こえた。かくして法然は、念仏はわれらが勝手に選んだのではなく、弥陀がわれらのために選んでくださったのだと確信できたのです。
 こう言ってもおなじです。法然にとって、これまで南無阿弥陀仏は経典に書かれた文字にすぎなかったが、あるときそれが声として彼に届いたと。

タグ:親鸞を読む
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