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出離の強縁 [はじめての『高僧和讃』(その204)]

(7)出離の強縁

 次の和讃です。

 「曠劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」(第101首)。
 「これまで輪廻くりかえし、出離の縁に遇えなくて、本師源空いまさずば、またもむなしくすぎなまし」。

 このうたもまた源空聖人に遇えた喜びを詠います。これまでずっと輪廻のなかを彷徨ってきて、このたび源空聖人に遇うことができて出離の縁をえたが、もし源空聖人に遇うことができなかったら、また輪廻の闇のなかを彷徨っていたことだろう、と。「あゝ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし。たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへりてまた曠劫を経歴(きょうりゃく)せん」という『教行信証』の序文のことばが頭にうかびます。和讃では「出離の強縁」と言われ、序文では「弘誓の強縁」と言われる、その曰く言いがたい消息に思いを致したい。
 「あひがたくしていまあふことをえたり」と、親鸞は先の序文につづいて述懐しています。もちろん本願に「あふことをえた」ということですが、その強縁となったのが法然との出あいであることは言うまでもありません。法然が本願に「あふことをえた」のは、善導の「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の一文に出あうという強縁があったからのように、親鸞も『無量寿経』の本願は何度も目にしていたに違いありませんが、それまでは横に寝ていた文字が突然立ち上がって「親鸞よ、汝が南無阿弥陀仏と称えれば、かならず汝を往生させよう、そうでなければ、わたしも仏となるまい」と語りかけてきたのは、法然と出会い、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と直に教えてもらうという強縁があったからに他なりません。
 親鸞にとってこの強縁という思想、すべては宿縁によるという思想がどれほど核心的なものであるかはここでも確かめることができます。

タグ:親鸞を読む
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