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源空という人 [はじめての『高僧和讃』(その206)]

(9)源空という人

 次の和讃です。

 「源空三五のよはひにて 無常のことわりさとりつつ 厭離(おんり)の素懐(そかい)をあらはして 菩提のみちにぞいらしめし」(第102首)。
 「源空十五のおんとしに、無常のことわりさとりては、厭離の思いあらわして、菩提の道に入りたり」。

 ここにきて法然の人となりについて詠われます。法然は長承2年(1133年)、美作・久米(みまさか・くめ)に生まれました(親鸞は1173年生まれですから、40歳の開きがあります)。父は漆間時国(うるまときくに)という押領使(おうりょうし)で、今でいえば地方の警察署の長といったところでしょうか。法然9歳のとき父時国が稲岡荘の預所(荘園の管理者)・明石定明の夜襲に遭って深手を負い死亡するという悲劇が起こりました。そのとき父は法然に「決して仇討を考えてはならぬ。おまえは出家して生死解脱の道を求めよ」と遺言します。彼はその遺言にしたがい、僧である叔父のもとで得度します。
 そして齢15にして(13とも)比叡山に登ります。この年ともなれば、父の遺言の意味することも心に沁みて理解できたことでしょう。『法然上人行状絵図』に「幼稚のむかしより成人のいまに至るまで、父の遺言わすれがたくして、とこしなえに隠遁の心ふかき」という源空のことばが記録されています。法然は師・源光のもとで厳しい修行生活に入りますが、18のときに西塔黒谷の叡空(えいくう)のもとに移ります。源信が横川に移ったのと同じく、僧としての立身出世の道から離れ、父の遺言にしたがって生死解脱の道を求めてのことだったでしょう。彼は黒谷で経論釈を読み破る生活を送り、「智慧第一の法然房」とよばれるようになっていきます。
 しかし彼には求めても求めても得られない思いがあったようです。『絵図』にこんなことばがでてきます、「かなしきかな、かなしきかな。いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧(かいじょうえ、戒律と禅定と智慧)の三学の器にあらず。この三学のほかにわが心に相応する法門ありや、わが身に堪(たえ)たる修行やある」と。こうして生死いずる道を求めての彷徨が続くことになります。そして43の歳に善導『観経疏』との運命的な巡り合いがあるのですが、それについてはすでに述べました(4)。

タグ:親鸞を読む
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