SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その208) ブログトップ

現世のすぐべき様 [はじめての『高僧和讃』(その208)]

(11)現世のすぐべき様

 法然は念仏を申すことが肝心であって、念仏を申すことができれば「現世のすぐべき様(この世の生き方)」はどんなものであってもかまわないと教えます。このことばは示唆するところが多いとともに、誤解される危険も大きいと言わなければなりません。法然が「念仏を申す」と言うとき、それはただ形の上で念仏するということではなく、「いつもこころに本願名号がある」ということであるのはもちろんのことです。「こころのなかでいつも本願名号の声が聞こえている」ような生活をしなさいということです。
 法然は一日に6万遍念仏をしたということですが、これも法然としてはそのように自分に課すことが「いつもこころに本願名号がある」生活としてふさわしいと思えたからに違いありません。しかし、それが法然にふさわしいからといって、他の人にもふさわしいとは限りません。そもそも日々の生業に追われて暮らす人たちにそんなことができるとは思えません。法然としては、それぞれの人がそれぞれの立場にあって、どのような生活が「いつもこころに本願名号がある」にふさわしいかを考えるべきだということです。
 「現世をすぐべき様」と念仏の関係はどのようなものでしょうか。
 念仏者はかくかくしかじかの生き方をしなければならない、かくかくしかじかの生き方をしてはいけない、とはならないということ、これがまず言えることです。前にも言いましたように、念仏はそのまま生き方の規範とはなりません。念仏者は「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」べきである、念仏者は「父母の孝養」をすべきである、仏者は「師につくす」べきである、とはならない。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」のは聖道の慈悲であり、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」であり、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(『歎異抄』第4章・第5章・第6章)です。
 しかし、だからといって念仏者は何をしてもいいということではありません。法然的に言えば、念仏者は「念仏の申されん様に」生活すべきであり、親鸞的に言えば、念仏者はその生活のなかにおのずと「この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」(『末燈鈔』第20通)があらわれるものだということになります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その208) ブログトップ