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禅定博陸 [はじめての『高僧和讃』(その209)]

(12)禅定博陸

 次の和讃です。

 「源空存在せしときに 金色の光明はなたしむ 禅定(出家の意)博陸(はくりく、関白のこと)まのあたり 拝見せしめたまひけり」(第104首)。
 「源空この世にありしとき、身よりまばゆき光明を、はなてしさまを関白は、まのあたりにてみられたり」。

 法然は求められるままに、時の関白・九条兼実の館・月輪殿(つきのわでん)に赴き、授戒していたようです。そんなおり、法然から後光がさしているのを兼実がまのあたりにしたというのです。親鸞が編纂したといわれる『西方指南抄』に「月輪禅定殿下兼実(御法名円照)帰依甚深なり。ある日聖人(源空)月輪殿に参上し、退出のとき、地より上高く蓮華を踏みて歩みたまふ。頭光赫奕(かくやく)たり。おほよそは勢至菩薩の化身なり」とあります。兼実にとって法然がどのような存在であったかが伝わってきます。そう言えば『選択集』は兼実のたっての願いで書かれたのでした。
 ここで考えたいのは時の最高権力者である兼実とも懇意にしていた法然の「現世のすぐべき様」についてです。
 山を下りて専修念仏を説く法然が位の高い貴族の館に出向いて授戒をするというのは、どうにも飲み込みにくいと言わざるを得ません。諸行も戒も選び捨て、ただ念仏だけを選び取ってくださったのが一切衆生の往生を願う阿弥陀仏の本願であるとするのが専修念仏のはずなのに、貴族の求めに唯々諾々と応じ、しかも授戒をするのは矛盾しているではないかと言いたくなります。
 ここをどう考えるべきでしょうか。ぼくはこのような一見矛盾した姿に法然の「現世のすぐべき様」がよくあらわれていると思います。兼実が法然に授戒を求めたのは、おそらくその「智行の至徳」が知られていたからのことでしょう。そのような方を戒師とすれば霊験あらたかであろうと考えたに違いありません。
 そんな望みににこやかに応じる法然の姿には、「念仏の申されん様に」この世を過ごせばいいという柔軟な思いが滲み出ているのではないでしょうか。念仏を申すようなものは、こうしなければならない、こんなことはしてはいけない、といった窮屈な発想をすることなく、とにかく「念仏の申されん様に」過ごせばいいというわけです。

タグ:親鸞を読む
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