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念仏者としてのしるし [はじめての『高僧和讃』(その210)]

(13)念仏者としてのしるし

 貴族たちが僧侶に授戒を求めるのは病気平癒などのためでしょうが、法然がそれについてどう考えていたかは次のことばに明らかです。「受くべからん病は、いかなるもろもろの仏神に祈るとも、それによるまじきことなり。祈るによりて、病も止み、命も延ぶることあらば、だれかは一人として病み死ぬる人あらん」(『黒谷上人語灯録』)。さらに「念仏を信ずる人は、たとえいかなる病を受くれども、みなこれ宿業なり。これよりも重くこそ受くべきに、ほとけの御力にてこれほども受くるなり、とこそは申すことなり」(同)と言います。
 法然にとって念仏が病気平癒などの現世利益のためでないことは言うまでもないことです。それでも法然が貴族の求めに応じたのは、それがきっかけともなって念仏が広まることを願ったからに違いありません。
 ただ、親鸞になりますと、そのあたりがもう少し厳格になるような気がします。親鸞は、念仏するものはその生きざまのなかにおのずと念仏者としての「しるし」があらわれるものであると考えます。自分は念仏者であるから、こうすべきある、ああすべきではないと意識して行動するのではありませんが、念仏するなかでおのずと「この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」が出てくると言うのです。
 そうした考えから言いますと、(親鸞にそういうことがあるとは考えられないことですが)たとえ貴族から授戒の求めがあったとしても、そのような場からはおのずから足が遠のくのではないでしょうか。念仏者としてそんなことをすべきではないと意識的に拒絶するというよりも、もう身体がそれを受けつけないようになってしまうと思うのです。あるいは、何か目に見えない力でそのようなところに近づかないよう背中を押されると言うべきでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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