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「その心すでにつねに浄土に居す」生活とは [はじめての『高僧和讃』(その214)]

(17)「その心すでにつねに浄土に居す」生活とは

 「臨終往生」では時間がその前と後とでくっきり切れるのが臨終のときですが(善導はそれを「前念命終、後念即生」と言います)、それに対して「即得往生」においては、それは「信楽開発の時刻の極促」(信巻)です。本願に「あひがたくしていまあふことをえた」そのときを境に時間が前後に断ち切られるのです。それまではただひたすら「わたしのいのち」を生きてきたのですが、その後は「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで同時に「ほとけのいのち」となります。そして「その心すでにつねに浄土に居す」ことになるのです。
 では、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」となり、「その心すでにつねに浄土に居す」ようになると、世界はどのように変わるのでしょう。残念ながら、ほとんど何も変わりません。昨日の世界がそのまま目の前にあります。そして、おいしそうなものがあると食べたくなり、きれいな女性がいるとつい見とれますし、つまらないことに腹を立てることも昨日までと何も変わりません(ついこの間のことですが、混んでいる病院で順番待ちをしていますと、自分より後の番号の人が先に呼ばれることがあり、その瞬間、自分でもあきれるほど腹が立ちました)。
 としますと、「ほとけのいのち」を生きると言い、「すでにつねに浄土に居す」と言うのは看板に偽りありということでしょうか。
 いえ、そうではありません。「あひがたくしていまあふことをえた」ことは、その後の生活に明らかな痕跡を残しています。その生きざまのなかに親鸞の言う「しるし」がはっきりとみられるのです。それはどんな「しるし」であるのかを明示的に言うことはできませんが(前にも触れましたように、「弥陀の本願を信じ、念仏する」ことから具体的な生活規範を演繹することはできません)、それを悲しみと喜びの両面からおぼろげに示すことはできます。

タグ:親鸞を読む
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