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悲しみと、そして喜びと [はじめての『高僧和讃』(その215)]

(18)悲しみと、そして喜びと

 まず悲しみの面から。すぐ前のところで、病院で順番が飛ばされてしまった時、自分でもあきれるほど腹が立ったと言いました。そんな自分にあきれるというのは、些細なことに激している自分を恥ずかしく思うということです。ここに親鸞の言う「この身のあしきことをばいとひすてんと」する「しるし」があらわれているのではないでしょうか。もし本願に「あひがたくしていまあふことをえ」ていなければ、怒りに身を任せている自分を恥ずかしく思うことなどありません。そこには悲しみなど影もなく、ただただ怒りがあるだけです。順番を飛ばされたのだから腹を立てるのは当たり前であり、その怒りは人間として正当な怒りであって、そのことを恥じる理由など何もありません。
 ところが本願に「あひがたくしていまあふことをえ」ますと、どうしてこんなに激するのかとあきれるのです。そして恥ずかしくなるのです。何にあきれているのか、何を恥ずかしく思っているのかといいますと、いつも真っ先に顔をだす「わたし」というものにあきれ、そしてそのことが恥ずかしくなるのです。ひとに先を越されると無性に腹が立つのは、この「わたし」というものがないがしろにされたと感じるからです。無性に腹を立てながら、それを横から「あゝ、また“わたし”がないがしろにされたことを怒っている」と眺めている自分がいます。そのとき、煩悩具足のおのれに対する悲しみがひたひたと押し寄せてくるのです。
 この悲しみが本願に「あひがたくしていまあふことをえ」た「しるし」ですが、でもこの悲しみは煩悩へのブレーキとなり、激しい怒りがまもなくおさまってきます。怒りのとりことなっている自分にあきれることで、怒りがおのずから静まってくるのです。そしてそこにほのかな喜びが生まれることになります。悲しみがいつしか喜びへと転じ、そうして本願のありがたさをかみしめる、これが本願に「あひがたくしていまあふことをえ」たことの「しるし」ではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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