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法然と親鸞 [はじめての『高僧和讃』(その218)]

(21)法然と親鸞

 法然の専修念仏の教えは、無明の長夜を生きなければならなかった人々にとって希望の灯となり、上は上皇から下は一般庶民にいたるまで燎原の火のごとく広がっていったことを見てきました。その希望を象徴するのが臨終における弥陀の来迎でしょう。弥陀が観音・勢至を伴って迎えにきてくださるというイメージが希望の灯として人々のこころに輝いていたと思われます。このように浄土はあくまで未来のひかりであるということ、ここに法然浄土教の本質があります。
 未来のひかりが現在に安心を与えてくれるというこの構図を一転させたのが親鸞浄土教です。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」といい、また「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」というのが親鸞であるということ、ここにもう一度たちかえりたいと思います。「浄土は未来にあり」を「浄土は足下にあり」へと、「未来に往生の旅がはじまる」を「すでに往生の旅ははじまっている」へと転換したということです。
 「浄土は未来にあり」は分かりやすく、「浄土は足下にあり」は分かりにくいと言わなければなりません。「未来に往生の旅がはじまる」はすっと頭にはいりますが、「すでに往生の旅がはじまっている」はなかなか呑み込めません。なぜなら目の前にある現実は無明の長夜であり、現に生きているのは紛れもなく穢土だからです。どうして「浄土は足下にあり」などと言えるのか、なぜ「すでに往生の旅がはじまっている」のか、それは矛盾そのものではないかという声がしてきます。
 しかし「浄土は未来にあり」や「未来に往生の旅がはじまる」についても、どうしてそんなことが言えるのかという疑問があります。そんな未来のことをどうして信じることができるのかという点は「浄土は未来にあり」という教えにとって根本的な問題といわなければなりません。「浄土は足下にあり」には、それは矛盾しているという抗議があり、「浄土は未来にあり」には、その根拠はどこにあるのかという疑問があるのです。この二つは互いに絡み合っています。

タグ:親鸞を読む
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